九州人による震災の記憶
2011年3月11日は福岡市天神にいた。
その時間は、長い長いミーティング中だった。
休憩に入って溜息混じりにオフィスへ戻ると、同僚たちが慌てている。
「先輩、ヤバイっす。東北でデカい地震があったみたいで、津波で凄いことになってます」
ネットニュースを観ると、確かにとんでもない事態になっているようだった。
正直、津波と言われてもピンと来ない。
いつもの津波警報は、せいぜい20〜30cm。
NHKで速報を観る度に、警報出す意味あるのかな、そんな不謹慎なことをいつも思っていた。
会議室に戻ると、同僚が携帯を握りしめて真っ青になっていた。
つい半年前に、東北エリアからUターン異動してきた同僚。
石巻市を担当する女性営業に連絡が取れないとのことだった。
津波で相当に被害を受けている漁港へ打ち合わせに行っていたらしい。
いつもは夜遅くまで続くミーティングが、早々に打ち切られた。
私の気がかりは別のことだった。
プロモーションに携わった九州新幹線の開通でが、翌日に控えていたのだ。
九州新幹線の全線開通は、九州人にとって、観光に携わる人々にとって、長年の悲願だった。
私が所属する会社も、全線開通を祝したイベントに参加して、賑やかしをする予定だった。
夕方になるにつれ、地震と津波の被害がシャレにならないレベルのようだと分かってきた。
JR九州主催の開通イベントは中止が決定した。
この日のために何年もかけて準備してきたJR九州の人たち、新幹線沿線の人たちのことを思うと心が痛んだ。
私が勤める会社で、開通プロモーションのメイン担当だった私は「よりにもよって、なんで前の日に…」と唇を噛んだ。
帰宅後、ずーっとNHKを観ていた。
とても、同じ国の映像とは思えなかった。
何か心が動くわけでもなく、目の前の衝撃映像が淡々と通り過ぎていく感覚だった。
翌日、私の会社が発行する情報誌の責任者、編集長とともに天神のプロモーションエリアへ向かった。
やはり中止となった。
お茶でも飲んで帰ろうと立ち寄った地下街のカフェ。
「どうなるんですかねえ」なんてダラダラと話していたら、編集長が「え!」と突拍子もない声を出した。
彼の前職は全国紙の記者。
その彼が震えながら呟く。
「これ、ヤバイです。たぶん、僕たちにとって一生に一度も遭わないはずの事態が起こってます」
携帯の画面に出ていたのは、爆発した原子力発電所だった。
息を呑んだ。
ふと隣の席を見ると、見知らぬおじいさんがクロスワードパズルを解いていた。
震える私たちと、のんびりクロスワードを解いているお年寄りのコントラスト。
その不思議な光景を、まるで昨日のことのように覚えている。
テレビのニュースは1秒経つごとに深刻化。
遠く離れた福岡も、驚くほど街が暗くなっていった。
原発のニュースを眺めながら、ああ日本は終わるのかも…とうっすら思っていた。
石巻の女性営業は、漁港に車を乗り捨て、走って山へ逃げたそうだ。
1〜2日かけて山を越え、辿り着いた街でようやく安否確認できたとのことだった。
遠く離れた九州でも、焦りと絶望感があった。
あの時の心境を忘れないように書き残した。
九州新幹線は残念だったが、だからこそ、このCMに深い意味が出た。
今も落ち込むと再生する動画だ。